第0章:維持の失敗

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第1話:ステーキ

2012年5月30日/自宅/夕方

患者さんが「ご飯が食べられない」と言うとき、私はいつも原因を探していた。嚥下の問題か、疼痛か、精神的なものか。熱は? 既往歴は? いつから?

看護師として、それが仕事だった。

夜勤明けで家に帰り、子どもたちと外出した。いつもと変わらない時間。夕方になって、突然寒気がした。厚着をして布団にもぐり込む。体温計は38.4度を示していた。

妻がリビングから声をかけてきた。

「ご飯できたよ。今日はちょっと奮発したから」

テーブルの上には、少し高めの牛肉を使ったステーキが並んでいた。

なんてタイミングが悪いんだ。

食卓についた。箸を持った。肉を口に運ぼうとした。

噛もうとすると、喉が先に固まった。

——食べられない。

胃が受け付けないとか、そういうことではなかった。身体が、食事をするという行為そのものを拒否している。

「ごめん、先に寝るわ」

妻の「せっかく作ったのに」という声を背中で聞きながら、布団に向かった。

5月31日/自宅/朝

汗で目が覚めた。熱は下がっていた。身体は怠かったが、他に症状はなかった。

大丈夫だ。起き上がれた。持ちこたえた。

5月31日/自宅/夜

夜中の10時、悪寒で目が覚めた。体温計は39.4度。頭が割れそうだった。腹も張り裂けそうだった。

隣で妻が眠っている。起こそうか。

やめた。

妻も元看護師だ。起こせば対応してくれるだろう。でも、身重の身体で寝ているのを、自分のことで起こすのは申し訳ない。

一晩我慢すれば治るかもしれない。明日は仕事だ。

ただ、そう祈って目を閉じた。

第2話:計算

2012年6月1日/自宅/朝

熱は下がらなかった。頭痛も続いていた。

電話を取る。職場に欠勤の連絡を入れる。

「すみません、本当にすみません」

休みの電話をかけるとき、いつも胃が痛くなる。自分が休むことで、誰かに負担をかける。それが許せなかった。

近くの診療所へ行った。診断は「嘔吐下痢症」。消炎鎮痛剤、吐き気止め、整腸剤が処方された。

これで治る。一日休めば戻れる。

6月3日/通勤車中/朝

日曜日。日曜や祝日は人手が足りない。休むわけにはいかない。

出勤前に時計を見た。薬が効くピークを逆算して、鎮痛剤を飲んだ。

——職業病だ。

患者さんには「無理しないでくださいね」と言う。自分のことになると、薬の効果時間を計算して出勤しようとする。

その矛盾を、私は笑えなかった。

職場までは山道を車で1時間。その間、腹痛との戦いだった。コンビニがない。トイレがない。カーブのたびに腹を抱える。

申し送りをしながら、何度もお腹を押さえた。誰にも言わなかった。異動したばかりの病棟で、まだ仕事も覚えきれていない。人より頑張らないといけない立場だった。

少しでもみんなに迷惑をかけないように。それだけを考えていた。

第3話:ファイル

2012年6月8日/病棟/朝

アラームで目が覚めた。ベッドから体を起こす。

重い。

手に、異常な重さを感じた。普通ではないだるさがそこにはあった。

何か重いものを持ったっけ? 年齢を重ねると、筋肉痛が数日遅れで来ることがある。そういうことだろう。気にしないことにした。

ナースステーションで記録をしていたときだった。主任から声がかかった。

「あれ、取って」

棚の上のファイルを指していた。手を伸ばす。掴む。

——持ち上がらない。

ファイルがズシリと腕にのしかかる。落としそうになって、慌てて支えた。

主任が一瞬こちらを見た。私は何も言わなかった。たかがファイルだ。疲れているだけだ。

今日は早く帰って休もう。そう思った。

6月9日/病棟/夜勤

夜勤だった。

夕方の点滴準備。手が動かしにくい。夕食の配膳。トレイが異常に重い。ベッドのハンドルを回す。力が入らない。

息が切れる。

そして気づいた。自分の頭を触ろうとしても、手が上がらない。

これは、おかしい。

まるで自分の体が、自分のものではないようだった。

6月10日/病棟/深夜

深夜2時。お茶を配る時間だった。

ヤカンを持ち上げようとする。持ち上がらない。両手で必死に持ち上げた。

こんなものも持てないのか。

頭の中で、鑑別が回り始めた。手に痺れはない。両側に症状が出ている。脳じゃない。だとしたら、ギラン・バレーか。頸椎ヘルニアか。

——看護師の脳が動いている。

でも、その知識は、今の自分の身体を何も救わなかった。

「今日は日曜日だし、どうにもできないな」

そう呟いて、仕事を続けた。

第4話:子どもの手

2012年6月10日/ショッピングモール/昼

夜勤明け。

ショッピングモールでキャラクターショーがあった。妻と子どもを連れて出かけた。妻は身重で、外出がストレス発散になる。家族サービスの時間は限られている。多少無理してでも、大切にしたかった。

ショッピングモールを歩く。

手が重い。

椅子に座っても、肩から先がずっしりと沈んでいる。息が切れる。

子どもたちが寄ってきた。

「パパ、大丈夫?」

小学3年生の長女と、1年生の長男。二人が、私の腕を両側から支えてくれた。

——情けない。

父親が子どもに支えられている。

外食をした。手を口元に持っていけない。片方の手で肘を支えて、なんとか食べた。ただ食事をするだけで、全身が疲労していた。

妻は8月が出産予定だった。

もし自分が入院したら、家はどうなる。子どもたちは。妻の負担は。一生このままだったら。

胸の奥が詰まって、そこで考えるのをやめた。

第5話:異常なし

2012年6月11日/自宅/朝

目が覚めた。今日こそ、昨日と違うはずだと思った。寝ている間に治っているかもしれない。

手を動かそうとした。

動かない。

腕は依然として重いままだった。

スマートフォンを触る。検索を繰り返す。症状は増えていた。手を口に持っていけない。ゴミ箱の蓋が持ち上げられない。ポケットに手が入らない。ボタンが留められない。お菓子の袋が開けられない。

様子を見ている場合じゃない。

6月11日/総合病院・整形外科/午後

神経内科を探した。何箇所か回ったが、休診だったり、そもそも神経内科がなかったりで、どこも診てもらえなかった。最後に、地元の総合病院へ行った。整形外科を勧められた。

3時間待った。ようやく名前が呼ばれた。

「とりあえず検査しましょうか」

レントゲン。採血。身体が辛い中、検査の時間が長く感じた。

結果が出た。

「異常ありません」

——異常がない?

この動かない手は何なんだ。

「様子を見ましょう」

医師はそう言った。

「金曜日にまた来てください」

様子を見ていて悪くなったから来たのに。手が動かないのに、仕事ができないのに。

「脳外科とか、内科とかは?」

「様子見るしかないですね」

診察室を出た。妻が不安そうな顔で待っていた。

私は笑って見せた。

「大丈夫。整形的に異常がないってことは、一歩前進やん」

怒りを隠して、笑った。

車に乗った。妻が運転した。私は助手席で、動かない手を見ていた。

夜が来る。動かない手をただ見つめていた。

[第1章へ続く]

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